3時限目 ケトン体は脳のエネルギー・食べながらする絶食
体に蓄えられた炭水化物は半日で枯渇するが、脂質は80日分が蓄えられている
田中博士 では3時限目の授業を始めましょう。前の時間には、体に貯蔵される主なエネルギー源は炭水化物ではなく脂質だとお話ししました。炭水化物に比べて脂質は5倍〜6倍高いエネルギー貯蔵効率を持ちます。そのため、炭水化物はグリコーゲンの形で肝臓に約100g、筋肉に約200〜300g蓄えられています。一方、脂質は約13.5kgも蓄えられているそうです。これは身長175cm、体重70kgの男性を基準にした値です(図1-2)。私たちが食事をした後、4時間ほどで食事から供給された炭水化物は枯渇し始めます。すると体に蓄えられたグリコーゲンが分解されてブドウ糖の形で血液中に放出されます。さらに空腹状態が18時間ほど続くと、体内でタンパク質と脂質が炭水化物の形に変換されて必要なエネルギーを供給します。同時に皮下に蓄えられた脂肪細胞では脂肪が脂肪酸とグリセロールに分解され、体の栄養素として利用されるようになります。
図1-2.人体のエネルギー源の比較
体重70kgの成人男性の貯蔵エネルギー
- 炭水化物:0.3〜0.4kg(約1,500kcal)
- タンパク質:6〜7kg(約25,000kcal)
- 脂質:13kg(約125,000kcal)
出典:Cahill GF. Starvation in man. N Engl J Med 1970;282:668-75
| 成分 | 質量(kg) | エネルギー(kcal) | 利用可能日数(日) |
|---|---|---|---|
| 水分とミネラル | 49 | − | − |
| タンパク質 | 6.0 | 24,000 | 13.0 |
| グリコーゲン | 0.2 | 800 | 0.4 |
| 脂肪 | 15.0 | 140,000 | 78 |
| 合計 | 70.0 | 164,800 | 91.4 |
佐藤恵子 ということは、私たちが1日くらい絶食すると、ブドウ糖と脂肪酸を同時にエネルギー源として使うんですか?
田中博士 そうです。食後は主に炭水化物のブドウ糖が使われ、空腹時にはブドウ糖と脂肪酸が使われます。絶食時間が長くなるにつれてブドウ糖の量は次第に減り、脂肪酸の利用量が増えていきます。
鈴木美咲 先生、でも私たちの脳はブドウ糖しか使えないと聞きましたが。
田中博士 はい、多くの方がそう誤解しておられます。でも私たちの脳は、ブドウ糖以外にもケトン体というものを主要なエネルギーとして利用できるんです。
鈴木美咲 ケトン体が脳で使えるんですか? でも、私たちが食べる食品の中にケトン体という栄養素はありませんよね? 栄養成分表にもケトン体という栄養素はありませんが。
空腹時、ケトン体は脳が必要とする栄養素の3分の2を供給する
田中博士 いい質問です。そのとおり、私たちが摂る食品にはケトン体という形のものはありません。ケトン体は肝臓で作られる栄養素の形態です。空腹時には脂肪酸をエネルギー源として利用するとお話ししましたよね。ところが、私たちの脳は脂肪酸を通さないんです。だから脂肪酸は肝臓に運ばれて、ケトン体という形に変換されます(図1-3(a))。ケトン体はブドウ糖よりもさらにスムーズに脳の関門(血液脳関門)を通過します。だから3日ほど空腹状態が続くと、つまり3日ほど絶食すれば、私たちの脳が使うエネルギーの3分の2をケトン体が供給し、残りの3分の1をブドウ糖が供給するようになります(図1-3(b))。
さあ想像してみてください。冬は2〜3ヶ月ありますよね。食べ物がないときに、体に蓄えられた脂肪が肝臓に行ってケトン体に変わり、脳の3分の2ものエネルギーを供給してくれる。人間の脳は重さでは体重の2%ほどですが、使うエネルギーと酸素は20%にもなります(図1-4)。さらに、生まれたての赤ちゃんは総酸素消費量の60%を脳で使うんですよ。だから人間の脳は『高エネルギー消費器官』とも呼ばれます。言い換えれば、ケトン体がなければ私たち人間の脳は今のように発達することができなかった、ということです。だからケトン体について多くの研究をした科学者は、こう言っています。『ケトン体があったからこそ、ホモ・サピエンス、つまり人間は存在することができた』と。
図1-3.ケトン体の生成過程と脳で使われるエネルギー
(a) 脂肪細胞→グリセロール/遊離脂肪酸→肝臓→ケトン体(β-ヒドロキシ酪酸、アセト酢酸)/ブドウ糖→脳
(b) 食後はブドウ糖100%、絶食時はブドウ糖が約30%、β-ヒドロキシ酪酸とアセト酢酸が残りの約70%
図1-4.人と動物の脳が消費する酸素の割合(%)
人(赤ちゃん) 60/人(成人) 19.6/子羊 10/クモザル 8.8/チンパンジー 8.6/ウサギ 3.1/犬 2.9/ゾウ 2.5/フェレット 2.1/馬 1.8/羊 1.7/ラット 1.7/モルモット 1.6/豚 1.0
鈴木美咲 驚きました。赤ちゃんが60%もの酸素を使っているなんて初めて知りました。でも気になることがあります。人間は他の動物に比べて脳が大きいですよね。そして脳はケトン体を優れたエネルギー源として使うと。だとすると、赤ちゃんは生まれたときから体に脂肪が多くないといけないはずですよね?
田中博士 ははは、鋭いご指摘です。実はそこに興味を持った科学者たちがいました。それで調べてみたんです。人間を含む各動物が生まれたときに体に蓄えている脂肪の比率を調べてみたら、本当に人間が16%でいちばん多くの脂肪を持っていたんです(図1-5)。モルモットが10.8%、ハープアザラシが10.4%で人間の次でした。一方、ヒヒや羊などは3%、ネズミやハムスターは体重の1%が脂肪だったそうです。つまり、人間は他の動物に比べて多くの脂肪を持って、ケトン体もたくさん作って脳に供給してきた、という論理が成り立つわけです。
図1-5.人と動物の出生時の脂肪比率(%)
人 16/モルモット 10.8/ハープアザラシ 10.4/オットセイ 6/トナカイ 4.8/ヒヒ 4.4/羊 3/子牛 3/馬 2.8/ツキノワグマ 2.6/ラット 2.3/人間 2.1(補足値)/ウサギ 2/猫 2/トナカイ 1.8/豚 1.8/ラット 1.3/フェレット 1.1/ハムスター 1
小林春子 他の動物に比べて人間が生まれたときに多くの脂肪を持っているというのは、ケトン食の重要性についての大事な示唆である、というのは否定できないと思います。それから絶食(断食)についてのお話も興味深いですね。でも1日以上絶食するのは体に害ではないでしょうか? 私は米国の病院で栄養士として働いていたとき、患者さんの食事を栄養素に合わせて組んでいたので。
田中博士 はい、よくわかります。多くの栄養学者や栄養士は、欠乏しないように食事を組むことを大切に考えていらっしゃいます。実は現代の栄養学は『欠乏の栄養学』とも呼ばれます。つまり、栄養素が欠乏しないことに重点を置いて、摂取量の基準を高めに設定しているんです。問題は、栄養素は欠乏も問題ですが、過剰でも問題になるということです。ご存じのように、肥満・糖尿病・高血圧・心血管疾患・腎臓病などは、栄養過剰が主な原因となって発生するものです。こうなった理由はいくつかありますが、その一つが『栄養推奨量』という概念を誤解していることなんです。
栄養推奨量は『平均値』ではありません。集団に必要な栄養素の量はそれぞれ違うのに、その平均値ではなく、上位97.5%の人を基準にした値が栄養推奨量とされています[7]。これは平均的に必要な値に標準偏差の2倍を足した値です。だから栄養推奨量に合わせて食事をすると、97.5%の人は常に栄養過剰になってしまう、ということです。これについては別の機会にもっと詳しくお話しします。今日のところは、ケトン体は脂肪が肝臓に運ばれて変換される栄養素の形態であること、そして空腹時に脳が使うエネルギーの3分の2をケトン体が供給するということを、理解していただければと思います。
ケトン食は「食べながらする絶食」である
田中博士 ケトン体は脳でたくさん使われますが、心筋などでも使われます。だからケトン体は心臓の細胞を健康にして、心臓疾患にもよい結果をもたらすことができます。これからお話ししていきますが、さまざまな健康上の利点があるんです。
山田佳子 ケトン体が心臓にもいいんですか? うちの主人が心臓の調子が悪くて最近心配してるんですけど。ケトン体がいいと聞いたら、もう少し詳しくお聞きしたいですわ。どんなふうにしてケトン体が心臓を健康にする手助けになるんですか?
山田佳子 でもご飯ずっと食べへんのは大変ですわ。お腹もすくし、日常生活もせなあかんし。
田中博士 はい、そうですよね。だから出てきたのが『ケトン食』という考え方なんです。ケトンは炭水化物が減ると作られます。炭水化物が血中にたくさんあると、インスリンが出てケトン体が作られなくなるんです。だから食事の中の炭水化物の量を減らして、代わりに脂質の比率を高めると、体は『絶食している』と認識してケトン体を作り始めます。つまり、ケトン食は『食べながらする絶食』だと言えるんです。
重要ポイント ● 絶食とケトン食はどちらも同じくケトン体を生成する
- 絶食は、体に蓄えられた脂質を使ってケトン体を作る
- ケトン食は、食事から摂取した脂質を使ってケトン体を作る
小林春子 ケトン食がそれほど効果がいいなら、関連する研究もあるのでしょうね。
田中博士 いい質問です。これを調査した論文によると、年間のケトン食研究の発表論文数は2012年にたった20本に過ぎませんでした(図1-6)。それが2018年・2021年には100本前後にまで増加しました。それだけでなく、ケトン食を直接研究したものではないけれど、自分の論文の中でケトン食研究を引用した論文はもっと多くて、2012年に22本だったのが2014年には281本と、2年で10倍以上に増え、2019年には2,057本、そして2021年には4,753本へと急増しました。
図1-6.2012〜2021年の毎年のケトン食論文発表数と引用数
(a) 発表数:20→27→33→27→45→35→50→64→103→96
(b) 引用数:22→146→281→500→806→1,125→1,531→2,057→3,483→4,753
小林春子 驚きですね。2012年から2021年といえば10年の間に、22本から4,753本にまで引用論文が増えたわけですね。だとすると本当に多様な研究が行われたのでしょうね。
鈴木美咲 ケトン食に関する研究が100本以上あるなら、その効果には根拠がありそうですね。それで私もケトン食をやってみたいんですけど、先生もご存じのとおり私は菜食です。動物は食べられません。植物だけでケトン食ができたらいいんですけど。
田中博士 ははは、大事な質問です。今すぐにご説明したいんですが、残念ながら3時限目の授業時間がほぼ終わってしまいました。詳しい過程については、次の4時限目でお伝えしますね。
鈴木美咲(目を丸くして喜ぶ)はい、ありがとうございます。
みんなの目をきらきらさせながら、熱心にノートを取っている。
※本文中の[1]〜[7]の番号引用は、巻末の参考文献リストに出典詳細を記載する。